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野澤太三会長の部屋

当会本部となっている野沢太三事務所の一室にて(2020年8月26日撮影)
(私の略歴)

 野澤太三でございます。1986年の日韓トンネル研究会入会以来、日韓トンネル構想の実現のため半生を捧げてきました。この場をお借りして私の生い立ちとトンネル人生についてお話しします。

  1.生い立ち
  2.大学生活
  3.国鉄時代 (2021年1月以降に載せます)
  4.政界にて (2021年1月以降に載せます)
  5.日韓トンネルの実現 (2021年1月以降に載せます)

1.生い立ち
 私は昭和8年に長野県の諏訪湖に程近く、上伊那郡辰野町にある農家の三男坊として生まれました。家の中には牛が一緒に家族と同じように住んでいました。その牛で田を耕し養蚕・養鶏の手伝いをしながら育ちました。
 中学2年のとき、好きで入ったバスケットボール部の激しい練習で左足を痛めました。始めは関節炎かと思いましたが、骨膜炎という重い病だということを土屋先生という町のお医者様が見破り緊急で手術し、進駐軍放出の貴重なペニシリンを処方して下さり命拾いしました。治して下さった土屋先生、その頃は非常に高価だったペニシリンの処方を同意した父、そしてペニシリンという特効薬を発見した英国の医師フレミング先生は、いうなれば私の命の恩人です。
 半年ほどで中学校に復学しましたが、足を痛めたことで元々好きだった運動はできず、その分、読書と勉強に力を入れることになりました。その後、伊那北高校に入学し、出会った地学の先生に大いに感化されました。そして理科の勉強を選ぶことになりました。
 
 
2.大学生活
 東京大学では物理や地学分野の理科一類を専攻しました。駒場寮の生活では法文系の皆様との付き合いのなかで「世の中にはいろいろな考え方がある」ということを知りました。社会的な目が開けたことで、理学部より工学部の方が向いているのではないかという気になりました。また駒場寮の歴史研究会に入り、どちらかというと左寄りの仲間と相当突っ込んだ議論をしました。それは後日、国鉄に入ってから労働組合と論戦でも決して負けないだけの勉強となりました。
 3年になるとダムの勉強のため、道路や鉄道、ダムの工事現場に行きました。そこでは水が溜まったダムのたわみ計算やアーチかストレートのどちらが良いかなどを学生にやらせてくれました。これが土木工学の面白い所です。その後、卒論のため鉄道技術研究所に入り、橋梁の溶接の研究を通して鉄道の仕事に面白さを知り、それが日本国有鉄道へ就職するきっかけとなりました。  


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