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日韓トンネル提唱の概要

 第二次世界大戦後、世界はアメリカ合衆国が率いる自由陣営と、ソビエト連邦が率いる共産陣営が勢力を争う冷戦の時代に入った。1950(S25)には北朝鮮軍が南北の武力統一を目指し、韓国に侵攻して朝鮮戦争が勃発した。日本はこの朝鮮特需をきっかけとして好景気が長期間続き、1973(S58)の第一次石油危機まで高度経済成長が続いた。技術大国となった日本では1964年に戦前の弾丸列車を下地にした東海道新幹線が開通し、鉄道・道路などの交通網の整備が進んだ。しかしながら大陸と陸路で繋ぐという発想は、東西冷戦構造の存在や日韓関係の緊張などで戦後25年間発表されることはなかった。
 日韓トンネル提唱の歴史年表

 日本と韓国を結ぶ構想は民間の声として1980(S55)に大手建設会社である株式会社大林組が発表した。東京発ロンドン行きのユーラシア・ドライブウェイ構想である。これは地上にある町や村を夜空の星々に見立て、それらを道で結び自由に往来するというロマンの提示でもあった。特に日本-韓国間の「海の道」を最難関とみて力点をおき技術的な検討を加えた。壱岐・対馬間は海底トンネルを、対馬・釜山間は鋼鉄枠とコンクリート枠からなるチューブを連ね、海中につるす海中トンネルとした。

一方、韓国では1981(S56)にソウルで開かれた「科学の統一に関する国際会議」の開会式で会議を主催した国際文化財団創設者文鮮明総裁が国際ハイウェイ構想と日韓トンネル建設を提唱した。日本から日韓トンネルで朝鮮半島に渡り、ソウル、ピョンヤンを通り、これを国際ハイウェイとして世界各地に拡張し、高速道路・鉄道・情報通信網の整備による、物心の自由化と一体化を図るという計画であった。この提唱は東西問題、南北問題解決策の具体的提案という性格があった。
 本提唱を契機に民間の調査研究団体として日本では国際ハイウェイ事業団や日韓トンネル研究会が、韓国では国際ハイウェイ研究会や韓日トンネル技術研究会などが発足し、日韓トンネルに関する日韓間の情報交換や交流が始まった。


 1990年代以降には日本国内でも様々な団体等が日韓トンネルの実現について言及した。1994年には財団法人エンジニアリング振興協会が日韓ントンネルの波及効果の分析結果を発表、1996年には日本のロケット開発の父と呼ばれる糸川英夫が著書「21世紀への遺言」で日韓トンネル建設を提唱、同年、ESCAP閣僚会議がアジア高速道と日韓トンネルを想定、2002年に大手建設会社「熊谷組」が日韓トンネルにも適用可能な新工法を発表、2005年には政府系シンクタンクNIRA(総合研究開発機構)が政策研究の中で日韓トンネル計画を発表した。




 1990年代以降は日韓トンネルに関する日韓首脳外交も活発化した

  1990年代の東西冷戦終結とともに日韓両国の首脳が日韓トンネル建設を提唱した。
1990(H2)ノ・テウ(盧泰愚)大韓民国は、来日時の国会演説で来る21世紀にむけてあるべき日韓間の友好協調関係のシンボルとして日韓トンネルに触れた。 

 
2000(H12)にはキム・デジュン(金大中)大韓民国大統領、森喜朗日本国総理大臣が相次いで日韓トンネル建設を提唱した。韓国は、「朝鮮半島が大陸と海洋の物流中心基地となり、ユーラシアと太平洋をつなぐ拠点として世界経済の中心軸になる」と予想し、朝鮮半島が物流中心国家となるためには日韓トンネルは不可欠との認識が国内で浮上している。森喜朗日本国総理大臣は2000(H12)にアジア欧州会議の場で金大中大韓民国大統領の日韓トンネル提唱を引用して日韓トンネルに言及し同席した各国首脳の関心をひいた。

 
2003(H15)ノ・ムヒョン(盧武鉉)大韓民国大統領は小泉純一郎日本国総理大臣との首脳会談で、北朝鮮問題が解ければ日韓海底トンネル建設の意見が再び経済人の間からでてくるものと思う、と語るなど日韓トンネルの必要性に言及した。

 

 

 

 

 


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